国葬とはどのようなものなのか、気になったので調べてみました。
目次
国葬の定義とは?
国家に功労のあった人(君主、皇族、王族、政治家、軍人、学者、芸術家、宗教家、環境保護活動家など)の死に際し、国の儀式として、国費をもって行われる葬儀のことを国葬と呼びます。。
戦前(第二次世界大戦前には、1926年以前)には天皇が直接発する「勅令」として行われていたものの、1926年(大正15年)に「国葬令」が公布され、主に皇族や国家に功績をのこした臣下について、天皇の特旨として行われていました。
一般の国民ではなく、元首相、左右大臣、太政大臣、旧薩長藩主、王皇族などがその対象となっていました。
なので、昔は天皇の特旨(気持ちやお考え)の元に、国葬をするかしないかが決められていたんですね。。
戦後は、国葬令が失効したため、規定された国葬は行われなくなりました。
一番最初に国葬として弔われた人物は?
初めて国葬として弔われた方は「岩倉 具視」でした。
1883年(明治16年)7月25日 、当時の岩倉具視(享年59歳)の地位は右大臣とされています。
岩倉 具視の最後は1883年(明治16年)、京都御所保存計画のために出身地の京都に来ている最中に咽頭癌が悪化し、東京へ戻ったりました。明治天皇からのお見舞いとしての訪問を受け入れ、重篤な状態でありながらも正装をしてお迎えした様です。岩倉具視から天皇へは、「陛下の万歳を祈るのみ」と言って静かに合掌したとされておりますが、このことからも
天皇とも近い関係の様でした。
戦前勅令が有効だった時代に、天皇からの国葬の思し召しがあったことが頷けます。
これまでに国葬で弔われてきた方々は?
これまで国葬で弔われた方々は全員で27名です。
前回は約33年前の1989年(平成元年)2月24日に行われた昭和天皇の国葬でした。
1883年(明治16年)7月25日 | 岩倉具視 | 右大臣 |
1887年(明治20年)12月18日 | 島津久光 | 公爵 左大臣 |
1891年(明治24年)2月25日 | 三条実美 | 公爵 太政大臣 |
1895年(明治28年)1月29日 | 熾仁親王 | 陸軍大将 参謀総長 |
1895年(明治28年)12月18日 | 能久親王 | 陸軍大将 近衛師団長 |
1896年(明治29年)12月30日 | 毛利元徳 | 公爵 参議 旧山口藩主 |
1897年(明治30年)2月7日 | 英照皇太后 | 皇太后 大喪儀(事実上の国葬) |
1898年(明治31年)1月9日 | 島津忠義 | 公爵 参議 旧鹿児島藩主 |
1903年(明治36年)2月26日 | 彰仁親王 | 元帥 陸軍大将 |
1909年(明治42年)11月4日 | 伊藤博文 | 公爵 内閣総理大臣 元老 |
1912年(大正元年)9月13日 | 明治天皇 | 天皇 大喪 |
1913年(大正2年)7月17日 | 威仁親王 | 元帥 海軍大将 |
1914年(大正3年)5月24日 | 昭憲皇太后 | 皇太后 大喪 |
1916年(大正5年)12月17日 | 大山巌 | 公爵 元帥 陸軍大将 内大臣 |
1919年(大正8年)3月3日 | 李熈 | 李太王(元韓国皇帝 高宗) |
1922年(大正11年)2月9日 | 山縣有朋 | 公爵 元帥 陸軍大将 内閣総理大臣 元老 |
1923年(大正12年)2月14日 | 貞愛親王 | 元帥 陸軍大将 内大臣 |
1924年(大正13年)7月12日 | 松方正義 | 公爵 内閣総理大臣 元老 |
1926年(大正15年)6月10日 | 李坧 | 李王(元韓国皇帝純宗) |
1927年(昭和2年)2月7日 | 大正天皇 | 天皇 大喪 |
1934年(昭和9年)6月5日 | 東郷平八郎 | 侯爵 元帥 海軍大将 |
1940年(昭和15年)12月5日 | 西園寺公望 | 公爵 内閣総理大臣 元老 |
1943年(昭和18年)6月5日 | 山本五十六 | 元帥 海軍大将 連合艦隊司令長官 |
1945年(昭和20年)6月18日 | 載仁親王 | 元帥 陸軍大将 参謀総長 |
1951年(昭和26年)6月22日 | 貞明皇后 | 皇太后 大喪儀(事実上の国葬) |
1967年(昭和42年)10月31日[7] | 吉田茂 | 内閣総理大臣 |
1989年(平成元年)2月24日 | 昭和天皇 | 天皇 大喪の礼(国葬) |